エラソーにこんなことを書いてみる

エラソーにこんなことを書いてみる

劇作家の仕事は物語を「考える(想像する)」ことと「書く」ことである。この二つは繋がっているが全く違う才能を必要とする。簡単に言うと前者はインプットの産物、後者はアウトプットの技術である。

脚本を書こうとする時、まずは「考える」ことから始まる。どんなシチュエーションでどんなストーリーにし、どんなテーマを盛り込み、それをどんな登場人物で描くか、頭の中で想像する。

この時に、自分の中にどれだけインプットされているかで想像力が変わってくる。普段から本や映画、他の舞台などを見ておかねばならない。その時、深い知識はいらないと思っている。インプットしておく情報は浅く広く。そしてそれらを見て、心が動く感受性を持っていないといけない。どんなことで自分は感動するのか、感銘を受けるのか、それを知らずして人を感動させることは出来ない。誰でも思いつくありふれた話にはしたくない。仮にそうであっても、自分にしか出来ない新しい切り口がなければならない。

物語の幹になるのは「テーマ」である。僕は脚本が仕上がって役者に本読みをして貰うときに必ずこの「テーマ」を説明する。役者が芝居に悩んだり迷ったりした時に、このテーマが芝居作りの寄り所になる。このテーマを伝えるために自分は何をすべきかを考えるのだ。だから役者とはこの物語で作者が伝えたいことを共有しておきたい。これがブレると芝居の締まりが悪くなる。

さて、テーマが決まり、どんなストーリーにするかが決まったら、後は書くだけだ。

しかしこの「書く」という作業が大変なのである。時折役者さんからも「実は今脚本書いてるんですよ」という話を聞くことがある。しかしついぞ「書き上がった」という話は聞かない。

物語のストーリーは思いついたから、書けると思ってしまうのかも知れない。しかし書くという作業は「テクニック」と「自分との戦い」なので、話が思いついたから書けるというものではないことを、脚本を書いてみた役者さんは知らないのだ。

小説や映像のシナリオと違って、舞台の脚本はとにかく制約が多い。

役者の人数や年齢、男女比が決まっている、用意できるセットや小道具に限度がある、出てきてすぐに殺されるなど一瞬しか出ない役は作れない(役者が可哀想)、物語の時間制限がある(小劇団なら90分~120分で終わらせて欲しい)などなど・・・ 

物語の基本は「起承転結」なので、それを踏まえて書くことも必要だし、登場人物の説明やシチュエーションの説明、時代や時間の説明も必要、盛り上がる山場の作り方や聞かせるセリフのもって行き方、ご都合主義と言われないように無理のない話の進め方や伏線の張り方、上手な回収の仕方、お客さんが飽きないように要所要所でインパクトのあるシーンを作る、など書きながら考えることは数多い。言葉のセンスなども問われる。

タランティーノ映画が流行った時、本編に関係ない独特のダラダラ話を真似した芝居を見たことがある。ああ、タランティーノみたいなのがやりたいんだろうなあと思ったが、いかんせんセンスがなさ過ぎた。タランティーノ監督はオタク心をくすぐる絶妙な話題と知識と言葉のセンスがあるから成り立っているのに、それを理解しないで、ただダラダラと意味ない話をすれば「どう? タラっぽいでしょ?」みたいな、そーゆーのはもうため息しか出ない。

話が逸れた・・・

先に脚本は「自分との戦い」だと書いた。これはどういうことかというと、自分の書いた台本を何回自分で直せるか、である。よくシナリオなどには「第3稿」とか「決定稿」とかあるのをご存じだと思う。これは最初の「初稿」から何回目の台本か、である。要は書き直し。

自分ごとで申し訳ないが、僕は平均して8回ほど書き直す。と言っても、最後まで書き切ってまた最初から書き直す、ではない。

物語を1~10までとすると、1~3を書いて、次は1~4を書いて、2~5を書いて、3~7を書いて、4~8を書いて、また戻って1~2を見直して・・・ という感じで、行きつ戻りつしながら最後の10まで書く。

しかし文章を書く人間としては、自分の文章を消すという作業がなかなか出来ない。一生懸命調べて書いた知識部分は削りたくない、という心理もある。一晩考えて書いたセリフを消すのは勇気がいる。ここまで書いたのにもったいないとか思ってしまう。

僕が昔、潜水艦の話を書いたとき、かなり自分なりに潜水艦のことを調べた。調べたことは書きたくなる。そしてセリフの中に延々と潜水艦の説明を入れた。しかし途中で気づいたのだ。こんな説明なくても話は通じる。そして僕はその部分をバッサリ切った。今となっては、それが出来ただけ俺はマシかなと思う。

他の劇団の芝居を見ても、この説明やこのシーンいらないよなあと思うことがある。でも削れなかったんだろうなあ。苦労して書いた部分や思い入れのあるところは削れないよ。だからそういう時に、編集者の役割つまり演出家がちゃんと切らなきゃと思うのだけど、大体そういう芝居は「作・演出」だったりするのである・・・

とまあ、脚本を書くというのは二つの異なった才能を併せ持っていないとダメだと思う。

言うなれば脚本家は音楽で言うところの「作詞」と「作曲」をやっているのである。ちなみに演出家は「編曲(アレンジ)」という役どころかな。

そして本当の脚本家(作家でもいい)というのは、とにかく「書くことが好き」でなければいけないと思う。文章という方法で自分を表現しないと生きていけない、取り憑かれたかのように書ける人間でなくては続かない。自分を削って、体中から絞り出して、胸の奥から噴火するかのごとく文章を書ける人でないと、人の心を打つ物語は生み出せない。

偉そうなことを言っているが、僕はそんな作家にはなれない。

なりたいと思ったときもあったが、そんな資質はなかった。

締め切りがないと書けない。

だから僕はいつまでたっても二流なのだ。

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