渡辺真知子さんの大ヒット曲に「かもめが翔んだ日」というのがある。
今回は母が翔んだ日、もとい、母が飛んだ日について書いてみる。
その電話は、僕が声優養成所で講師をしていた時にかかってきた。普段なら授業中の電話は気づかないか、気づいても出ない。
しかし、その日は虫の予感なのだろうか。
ちょっと待って、と生徒に告げ電話に出た。
「消防のものですが」
確かそんな電話だったと思う。僕の身分を確認され、
「ご両親が火事に巻き込まれ、お茶の水の日本医科歯科大病院に入院したので、すぐに来てほしい」
とのこと。
詐欺だ、と思った。
しかし、両親の名前も僕の名前も、両親の仕事先事務所も全て相手は知っている。
「お父様はお元気ですが、お母様が手術中です。すぐにお越しになれますか」
詐欺とか疑ってる場合ではない。
僕は授業を別の人に変わってもらって、急いでタクシーで病院に向かった。
そこで父親と会い、事の詳細を聞いた。
当時父親は日本橋にある雑居ビルの7階の一室で会社を経営していた。経理の手伝いで母親もたまに事務所に来ていた。
その、たまたまの日に事故が起こったのだ。
雑居ビル2階の店舗が漏電による火災を起こした。火の手が上がり、煙がビルの上階に上がってくる。
火災報知器の音が鳴り響き、父親たちが廊下に出ると、白い煙が充満していたという。
もう下には逃げられないと判断した二人は、廊下の共同トイレに逃げ込んだ。
事務所内ではなく、トイレに逃げ込んだのが結果的に二人が助かることになる。
トイレの扉を締めるが煙は遮断出来ない。扉の隙間から煙が入ってくる。
父親はトイレの窓を開けた。しかし大きくはない。
母親を窓の縁に立たせる。
すると、隣のビルの屋上が眼の前にあるのだ。距離にして数メートル。
父親は叫ぶ。
「飛べっ」
そう言われても、隣のビルである。しかも7階。足元を見るとはるか下に地面が見える。
「とにかく隣に飛べ!俺のことはいいから、とにかくお前だけでも隣に逃げるんだ!」
父親の背後にはモクモクと白い煙が広がり始めている。ここで自分が躊躇して窓を塞いだら父親が煙に飲まれてしまう。
母親は決心した。
「ああいう時って視界が凄く狭くなるのよ。もう、隣のビルの屋上の一点しか見えなくなるの」
屋上には、水たまりがあった。あそこに飛べば少しは軽減されるかも知れない。
母親はその水たまりに向かって飛んだ。
隣のビルは同じ高さではない。
水平距離なら3メートル位だが、さらに数メートル落ちるわけだ。
母親は水たまりに着地した瞬間、足が滑って腰を打った。
父親はトイレの窓から半身を乗り出して、煙から逃れた。
やがて、消防隊員に二人は助けられ、病院に行くことになるのだ。比較的症状の軽かった父親は、消防、警察から事情を聞かれ、更にはワイドショーのインタビューまで受けた(笑)
母親ダイブの瞬間は翌日のワイドショーで流れたのだwww
しかも、ご丁寧に再現VTRまで作られていた。齢70以上の老人二人の決死の脱出劇である。まー絵になると思ったんだろう。
後日その再現を見たが、突貫で作ったんだろう、もーー役者が下手すぎる(笑)俺にキャスティングやらせろって思った。
「俺のことはいいから、お前だけでも生きろ、飛べ!」
父親役の役者がカッコよく叫ぶ。
母親いわく、そんなカッコいいこと言われてないそうだ(笑)
まあ、父親の証言を元に作られたんだからしょーがない。
母親は腰を骨折し、今でもボルトを入れてるが元気だ。
今思えばトイレに逃げ込んだ父親の判断は正解だった。事務所だったら逃げ場がなかった。
7階だったのもラッキーだった。1つ上でも下でも隣のビルに飛べなかった。
人の生死の分かれ目というのは、ホントに小さな偶然なのかもしれないなと思う。
というわけで、世間広しといえど、日本橋の空をビルからビルへ飛んだのはウチの母親だけだろうってことでよろしく。
わずか数メートルだけどね。
亡くなった人がいなかったのが幸いで、だからこそこうやって書ける。
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