本を読むのが遅くてツラい日々

本を読むのが遅くてツラい日々

物心ついた頃から本ばかり読んできた。
最初は絵本、漫画だったが小学生に入る頃ズッコケシリーズにハマって文字を読む楽しさに目覚めた。

小学4年の時に学校で映画鑑賞会があって「砂の器」を見た。今思うと、殺人シーンやヌードシーンもあるわけで、よー小学生の映画鑑賞会に選んだなという感じだ。これはもう、先生が見たかったんだなと言うのが丸わかりである。

もちろん明るい映画ではないわけで、周りの友達はほとんど寝ていた。でも僕はむちゃくちゃ面白かったのである。
家に帰って母親に、砂の器の映画がすげー面白かったと言うと、原作の本が家にあるという。

ウチは母親も父親も読書家で、母親は特に推理小説ばかり読んでいた。当然松本清張は山程あるわけで、僕は小学4年の分際で分厚いカッパノベルスの砂の器を読破した。先に映画を見ていたというのもあって、すぐに読めた。
それまで児童小説ばかりだったので、世の中にこんなに面白い小説があるのかと夢中になった。

で、家にある松本清張や森村誠一の社会派推理ばかり読んでいた。

中学生になると、自転車で神保町に行って本を買いまくった。年相応のお小遣いは貰っていたが、僕はそれを全部本に費やしてしまうので他の友達が当たり前に持ってるものを持ってなかった。

両親は流石に可哀想だと思ったのか、本を買うお金はお小遣いと別にくれるようになった。代わりに領収書を貰って来るようにと言われた。父親は会社経営をしていたので経費で落とせるわけだか、当時の僕はそんなこと知らずに、「なんか知らんけど、領収書下さいって大人になった気分でカッコイー」と喜んで、本屋に行く機会がめちゃくちゃ増えた。

今となってはケチらずに本に関しては何も言わずに買わせてくれた親に感謝だ。(とはいっても月に2000円くらいなものだが)

しかも僕は、何が何でも本だけは捨てられない性格なのである。思い出の品とか、卒業アルバムなんかは平気で捨てても良いと思ってるのに、こと本になると文庫本一冊でも捨てられない、売るのも駄目。

つまり僕の人生の思い出は、本とともにあるわけだ。この本を読んでた頃はあーだった、こーだった、と思い出せる。

多分実家には、もう手に入らない絶版本やレア物の本がゴロゴロあるはずだ。

しかし、僕は圧倒的に本を読むのが遅い…
それだけ読んできたなら、速読的な事も出来るだろと言われるし、過去速読に挑戦したこともある。
でも駄目だった。

もし僕が1.5倍早く読めたら、今より1.5倍の量読めたと思うと残念でならない。
読みたい本は今でも積読状態で何冊もある。
暇な時、本屋を見かけたら入らずにはいられない。入ったら買わずにはいられない。

なので僕はアマゾンで買い物をするが本だけは買わない。
多分便利なんだろうと思うが、買いすぎて破産する。
それに本屋さんで買いたいのだ。

僕にとって本は探すものではなく、出会うものである(名言)

というわけで、私生活と違って本とは出会いが多すぎて、追いつかない。
困ったものだ。

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