最後の7日間(5)

最後の7日間(5)

7月4日(月)

いつの間にか寝てしまった。

起きたら午前2時だった。

これから朝までの4時間、私にとっては12時間ということになるのか。

これからの出来事は逐一この日記に書いていこうと思う。いつかこの現象が元通りになった時、そして私が笑って話せるときがきた時、沙織に私の体験したこの不思議な出来事を聞かせてやろう。きっと信じないに違いない。それでもいい、私が考えた作り話として聞かせてもいい。沙織は本が好きだ。きっとこの話も気に入ってくれるに違い・・・

私は何を書いているのだ。この現象の原因も分からず、楽観的なことを書いて気を紛らわせようとしてるだけじゃないか。

もしこのまま他人と違う時間の流れの中で生きるのだとしたら・・・

私は妻や沙織より三倍速い速度で年老いていくのか?

嫌だ、そんなことはない。したくない・・・

一人だけ年老いていくのは嫌だ・・・ 私は妻と共に生き、沙織の成長を見守り、静かに生きていきたいのに。

会社だってどうだ? 私はみるみる老けていく。そんな姿をさらしながら働けるのか?

医者に行くか? しかし何科に行けばいいんだ? 病気なのか私は、いや病気だろう、病気だとしたら、精神科になるのか? 私だけ時間の進み方が違うような気がすると言えば信じてもらえるのか? そんなところ行けるか! 

今朝、妻や沙織の動きがさらに遅くなっていた。気が狂いそうだ。夢であってほしい、しかしこれは現実だ・・・ 現実なのだ。

私は妻たちに悟られないようわざと体の動きを緩慢にさせた。妻の発する言葉のスピードにわざと合わせて喋ってみた。普通だったら馬鹿にされていると思うだろう。しかし妻は気付かない様子だった。ゆっくりとトーストを口に入れ、ゆっくりと咀嚼し、ゆっくりとコーヒーを飲み・・・ 気が変になりそうだ。私はトイレに駆け込んで嘔吐した。

何をやってるんだ私は・・・ 吐きながら涙が出た。

家から逃げるように外へ出た。

駅へ向かう人たちがみなスローモーションだ。お前ら私を馬鹿にしてるのか! 歩いている一人一人の襟首を掴んで問い詰めてやりたい気分だ。彼らを追い抜かすようにどんどん歩いていく。不思議そうな眼で私を見る人間たち。そりゃそうだろう、駆け足ならともかく、普通に歩いているにも関わらずやたらスピードが早いのだから。ここで私が本気で走ったらどうなるだろう。100メートルで世界新記録でも出せるんじゃないか? 隣を見ると自転車に乗った会社員がいる。ギョッとした眼で私を見ている。笑いだしそうになった。今の私は徒歩で自転車と同じスピードが出せるのだ。そのうち自動車と競争しても勝てるようになるのか? 

目の前の横断歩道で老女が倒れた。誰も助け起こそうとしない。信号が赤に変わった。

私はいやな予感がした。同時に老女に向かって走り出した。

猛スピードで老女めがけて車が突進してきた。私は横断歩道に飛び出して老女を抱き上げる。向かってくる車の進路を見極め、私は体をひねって車をよけた。

横断歩道を両側で驚いたような視線を向けてくる人、人、人・・・

私にとっては数十秒の出来事でも、彼らにとっては一瞬の出来事なのだろう。

何だあいつは?という好奇の視線と、ありえないものを見てしまったという驚愕の視線が絡み合い、私を呪縛する。私は老女を置いて走ってその場から逃げた。後から「おお!」という歓声が聞こえた。

会社に行く気が失せた。私は近場の公園のベンチに座った。じっと地面をみる。こうしている間にも私だけ時間が刻々と流れている。

スローモーションで再生している映画の世界に紛れ込んだようだ。そう、いっそのこと私は映画の中の存在になってしまえばいい。作り物の世界の登場人物になってしまえばいい。映画ならいつか終りが来る。私は・・・ 私はこのまま一生こんな世界の中で生きていくのだろうか。妻も沙織も会社の同僚も街を歩く人もテレビの映像も電話の声もすべてが私を愚弄するかのようなスロー再生で動いている。

自然と涙が流れ出した。

泣きながら、ふと、笑いが込みあがる。馬鹿な考えが浮かんだのだ。

私はスーパーマンじゃないか、と。

私はこの世界で誰よりも素早く動けるのだ。強盗を犯しても人を殺しても私は誰よりも早く逃げることができる。どんな相手と喧嘩しても勝てるわけだ。

私は世界一のアスリートになり、世界一の格闘家になり、世界一の犯罪者になることができる。もしかして・・・今の状況は私にとって天国じゃないのか、

もう働かなくてもいい。金が必要になれば盗めばいい。いや、そもそも金が必要になることがあるのか?食べ物も欲しいものも盗み放題じゃないか。誰も私を捕まえることはできない。

私は笑っていた。おかしくてたまらなかった。いつしか公園のベンチで声をあげて笑っていた。こんな非現実的な現象に見舞われているのに、私はなんて俗悪なことを考えているのだろう。私はこんなことを考える人間だったのか、そう思うとおかしくてたまらなかった。俗悪だ、私は俗悪の人間だ。欲望にまみれた醜悪な人間だ。

こんなに笑ったことはないくらい大笑いした。同時にこんなに泣いたことないくらい私は子供のように泣きじゃくっていた・・・

夕方家に帰った。妻は沙織と一緒に買い物に行っているのだろう。家の中は誰もいなかった。私は沙織のベットの上に、以前から欲しいとせがまれていた熊のぬいぐるみを置いた。デパートの売場から盗むことくらい簡単だったが、盗品を娘にあげるわけにもいかない。商品棚に金を置いて持ってきた。気が狂いそうな私の最後の良心だ。

寝室に入ってこの日記を書いている。すでに缶ビールを三本あけた。全然酔えないのはきっとビールがそのまま涙になって目から溢れているせいかもしれない。

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